自分のつとめている大学を愛すること。

自分のつとめている大学のことを
あまり愛してはいない先生を
時々見かける。


私がよく接している友人にも、研究者仲間にも
また奈良県立大学の同僚にも
つとめている大学に愛情を感じない方は、
一人としていらっしゃらないが
(これは、今の時代、なかなか稀有なことである)、
自分自身がつとめておられる大学を
小バカにした発言をされる方がいらっしゃる。
それも大学を変えようとして、
文句を言うのではないのである
(組織を変えようと不満を表明されたりするのも
もちろん「愛」ある証だと私も分かっている)。



しかし、それほど大学を愛せないのなら、
つとめるべきではないと私は思う。


学生さんにとって、
そこは「唯一無二」の自分の母校なのである。
その意味で、学生さんにとって、
そこは、「かけがえのない」「代替できない」
大切な大学である。
その大学のことを愛してもいない教員に教えてもらうなんて、
そこを「かけがえのない」母校としている学生さんにとって、
良い迷惑である。
さっさと、ご自分が愛することができる別の大学へ
移られることをおすすめする。



そこで教鞭をとる以上、
そこを「かけがえのない」母校としている学生さんに対して、
応答しなくてならない。
そして、そうするためには、
教員自身もその大学のことを
「かけがえのない」ものとして、
愛することが必要のはずなのである。
そこを「代替できない」ものとする、
教員−学生の相互作用の中で
培われる雰囲気が
教育や研究をじっくり育て、熟成させていく。

大学とは本来、そういう知的共同体、場ではないのか?


だから、私は、
大学関係者の間で時々言われる、
「○○大学は××大学の植民地」という表現が
嫌いである。
これは、××大学の大学院を出たあと
○○大学へ教員として就職することが多いことを表す言葉だが、
すべての大学は、そこに通う学生さんにとっては、
「かけがえのない」「代替のきかない」母校であるのであって、
「植民地」であって良いような大学など一つもない。


私は大学院を出たあと、
専任教員として初めて教壇に立たせてもらい、
その後も自分が13年ほどつとめ、
教育者としても研究者としても成長させてもらった
勤務先の大学のことを愛している。
まあ、確かに外観は立派ではないし、
建物もおんぼろだが、
もし、この先、自分が他の大学へ
移ることがあったとしても、
奈良県立大学は自分にとって
深く特別の意味を持つと思う。


そして、もし大学を異動することがあっても
(そうすることが自分のやりたいことなら、
異動することも充分ありうるはずなので)、
奈良県立大学も、新しくつとめることになるであろう大学も
私にとって「唯一無二」の大学となる。
新しくつとめることになるであろう大学も
(いや、そんな話はありませんが)、
深く特別な意味を持つようになるに違いない。
どの大学も交換のきくものはない。
したがって非常勤先も教壇に立っているときには、
当然そこは「かけがえのない」大学だと思っている。
それぞれに異なる形でではあるが、
しっかりと愛しているつもりである。
つまり私が言いたいのは、
「何ものにもかえられのなさ」、
「置き換えのできなさ」、
「唯一無二性」、
そうしたものを基盤とした
教員−学生間の相互作用で培われる精神的土壌、雰囲気
これが大学(ウニベルシタス)という知の共同体には
不可欠である
ということなのだ。



ただし自分が教壇に立っている大学を大切に思っているが、
やみくもに愛情をそそぐのではなく、
冷静に大学の行く末を考え、
組織としては大学を必要に応じて変革できるように、
国内外の他大学や他の研究分野、
大学以外の他の世界などに
しっかりと目を向けるべきだと思っているが...。