社会学におけるバランス感覚。

社会学は、「当たり前」というものの箍(たが)をはずし、
常識的世界をぐらつかせることが大切です。



ですから、ちょっと肩の力をぬいて、
自分自身の物の見方を再考することを目指します。
それは、自分が確立した型だと思っているものを
「本当にそうなの?」と疑うことでもあります。



ただ、それゆえに、そうした社会学の思考は、
社会学自身にもはねかえってきます。



つまり「当たり前」の箍(たが)をはずし、
常識的世界をぐらつかせていると思っているけれど、
むしろ「社会学的常識」に囚われ、
社会学的な当たり前」に陥っていないか?



そうした自己反省性をつねにまといつかせるのが、
社会学の悲しいけれど、面白い性(さが)みたいなところがあります。



と言っていること自体が、「社会学的常識」なのかもしれません。



という疑問を呈すること自体、「社会学的常識」に囚われているのかもしれません。



と、こんな風に、ヘタをすると、延々に
自己反省を続けてしまうときがあり、
そこは気をつけておくべきなのかもしれません。
同時に、そうした部分をまったく失っても
面白くありません。
研究者が自己の枠組や型を疑い、
素人くさいということも、
社会学においては大事だからです。
その道の玄人「だけ」にしか
分からない社会学って、
私には形容矛盾にしか聞こえませんし、
何より、あまり魅力を感じません。



つまり社会学には、ある種の、
バランス感覚が必要になるのです。
そのバランス感覚は、
「当たり前」とか「常識」という基準に
支えられているものとは、
また別のバランス感覚なのだと思います。
だから余計に難しいと思いますが、
多分、それは、ユーモア=笑いをともなって、
人に優しいまなざしをどうしたって向けてしまうときに
私たちがもつバランス感覚ではないかと思います。
くすって笑う、優しいバランス感覚です。