スーパー・ポストモダン。

講義の振り返りやレポートを読んでいると、
ときどき私がポストモダン・ツーリストに対して
肯定しているような雰囲気で書かれておられます
(学生さんの皆さん、
かなりよく考えて頂いているなあと、
これだけでも思いますが)。



でも私はポストモダン・ツーリストに対しては両義的です。



ましてやポストモダン・ツーリストに対して、
自然主義を対置することは
私の立場ではありません。
自然主義は、実はモダニズムの範囲にあるもので、
そこに回帰しても実はポストモダンの限界を超えることにはなりません。



私が主張している立場は、
スーパー・ポストモダン
ウルトラ・ポストモダン
ポストモダンみたいなものです。



ポストモダンを生ききった(=行ききった)
世界の果てに見えてくるものを考えたりしています。
たとえば「遊び」も最後までやり尽くしてみると(=「遊び」の消尽)、
「遊び」がある新たな相貌を呈するみたいなことを考えています。
バタイユの世界なんて、まさにそうかもしれません。