やっぱ、古典はいい!

今日は、まほろば塾でした。



昨日、私の大学で行われた入試が終わった後、
同僚の安村先生と
「古典はやっぱりいい!」という話になって、
マルクスのことにまで話が及びました。


学部生の一時期、
マルクスに結構はまり、
友だちとマルクスのいろいろな著作を
よみあさっていたのを思い出しました。
さらにマルクスからヘーゲルに関心を移し、
分からないくせに、
『大論理学』や『精神現象学』まで読みました。


もちろん、
マルクスを専門に研究されておられる方のように、
読み込んでいるわけではありませんが。



つい懐かしくなって、
自宅にある『資本論』をひっぱりだして、
パラパラとめくると、
けっこう面白いではないですか!
「やっぱ、古典はいい」と思いました。
古典は、やはり時間の流れの中で蒸留されてきたエッセンスがあるのだと思います。それにふれると、多分、大学時代には大学時代なりの、大人になった現在には現在なりの、受け取り方で自分のなかの何かと共鳴し合うようです。


今回、商品論が面白く読めました。
あの頃に友だちと話していたことや、
今の自分が考えていることがちょうど
良い感じに混ざり始めているようです。



商品論は、コミュニケーション論、表象論なのだと今の私は思います。


商品に価値があるから、商品は交換されるのではなく、
交換というコミュニケーション関係におかれるから、
価値があるかのように表象されるのです。


ある商品は他の商品とかかわりをもってはじめて、
他の商品を「鏡」としつつ、
自らの価値を「商品語」で語るのです。
でも実は、ある商品が他の商品と関係し、
交換されなくてはならない必然性はまったくない。
それは、まさにある商品が他の商品に寄せる片思いです。
片思いが叶うかどうか、それは「賭け=戯れ(jeu)」なのです。
そして片思いがつのり、
相手(単なる物にすぎない他の商品)を
愛(価値)そのものだと思いこみ、崇拝する。
これが、「とりまちがい(quidproquo)」ですよね。
「とりまちがい(quidproquo)」という用語を
マルクスはうまく使っていると思います。
(この用語は、シェイクスピアの『間違いの喜劇』でも
使われていますが、関係あるのかな?)



とは言え、自らに価値の起源がなければ、
商品は、他の商品と等価であるという、
同一性をめぐる「賭け=戯れ(jeu)」の危うさを露呈せざるをえない。
そこで自らの価値の起源を「表象(represent)」するわけですが、
それが「商品に表象(represent)される労働」なのではないでしょうか。


だから商品を生産するにあたって労働が投下されるから価値があるのではなく、
商品を生産するにあたって労働が投下されるから価値があると「表象」しているにすぎないのです。


ある意味、私たちも同じですね。
私たちも他者と関わり、その関わりの無限の連鎖のなかで、
自己を表象し、創りあげているのかもしれません。
私たちは、
自らの起源がまるで「最初から」
自己自身のもとにあって、
他者と関わっているように見えますが、
そうではないのかもしれないのです。
そうではなく実は、
他者との関わりのなかではじめて、
自己を「あとから」表象しているではないでしょうか。
ここには、
自己同一性(アイデンティティ)というものの
危うさが見てとれます。


こうしたあり方は、デリダの言う「代補」ではないでしょうか?
価値存在(sein)という「起源」(はじまり)は、
つねにすでに、もっとも「遅く」現れるのです。
ヘーゲルは「存在(sein)」という起源から説きおこしていきました。
古典派経済学も「労働(価値の実体)」→「価値存在(sein)」と起源から説きおこしています。
その意味で、マルクスにとって、ヘーゲルは古典派経済学の哲学バージョンなのでしょう。
それに対してマルクスは、「関係」の形式から説きおこし、
あくまでも表象される「起源」として「存在(sein)」を述べています。


だから「価値の実体」「価値存在」というのは、
「起源という神話」ですね。
これはリカードたち「投下労働価値」説に対する
マルクスのパロディなのだと思います。
だから、経済学「批判」なんですよ。たぶん。



観光に関連させて言えば、
H.I.S.という企業も、
みずからの「起源」を
後々に物語化していっています。


「労働価値説」に対するパロディなら、
じゃあ、労働はマルクスには関係ないの?
ということになりますが、
マルクスは古典派経済学以上に真摯に
労働を扱ったと私は思うのです。
それは労働過程(プロセス=生成)論としてです。
労働過程論は、ヘーゲルの「有−無−成」における
「成」のマルクス・バージョンですね。


商品どうしのコミュニケーション関係が、
資本という「運動体」になっていくためには、
「運動」をおこすための生成の「エネルギー」がいる。
それがマルクスにとって、労働「力」なんですよ。きっと。
労働「力」の「力」は、物理学でいうような
運動エネルギーみたいなものだと思います。


でも、その生成の運動エネルギーが、
つねに資本という「運動体」に、
すいあげられ回収されてしまう構造こそが、
「疎外」とマルクスが呼んだ現象なのではないでしょうか?


いや逆かな?
こうした生成の運動エネルギーが、
つねに資本という「運動体」に、
すいあげられ回収されてしまう社会構造があるからこそ、
商品どうしのコミュニケーション関係のあり方が、
上で述べたようなものになるのかな?



このように考えて読むと、
結構、いろいろな社会現象に応用できそうで、
面白そうです。
そのあたり、大学院時代に読んだ本ですが、
有井行夫さんの『マルクスの社会システム理論』が面白かったです。


古典は、それと対峙する自分が、
「じゃあ、自分自身がどう考えるの?」ということがあってはじめて、
素晴らしい意味を持つのかもしれないと感じた次第です。



ヴェーバーも、デュルケームも、ジンメルもそうですね。
パーソンズだって、そうだと思いますよ(ん?パーソンズは古典か?)。
パーソンズの「機能」「システム」という概念は、
もう一度、あらいなおしてみるべきだと思うのです。
そうするとルーマンやら、ブルデューやらと
つながってくるかもしれません。



資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)



マルクスの社会システム理論

マルクスの社会システム理論