「本流」「異端」って何だ?

根井雅弘さんの『経済学の教養』(NTT出版)を
読んでいて、ほぼ同い年(根井さんの方が一つ年上)ですが、
考え方は結構違うなあと思いました。


経済学の教養 (NTT出版ライブラリーレゾナント)

経済学の教養 (NTT出版ライブラリーレゾナント)


一番、思ったのが次のような部分(92頁、94頁)です。

異端からは本流に近づけない

本流から外れた周辺に位置する人たちの文献ばかり読んでいると、終いには、自分たちが研究の対象にしているものが対峙していた「本流」の「本流」たるゆえんがわからなくなってしまうばかりか、きわめて限られた範囲の文献しか読めなくなってしまう恐れが多分にあるのです。

私からすれば、
「本流」「異端」って誰が決めているの?
と思うわけです。
(奥さんは、「あなたは異端だからね」と言います。
オレが?あんなに「優等生」だった、このオレが?
すみません。ウソをつきました。「優等生」ではありませんでした。)



「本流」「異端」なんてものが
最初からあるわけではない。
それらは、社会的な交渉のもとで
つくられてきたカテゴリーに過ぎないのではないでしょうか。


100歩譲って、
「本流」「異端」が本質的なものであるかのように
存在するとして(まったくそうは思いませんが)、
別に「異端」ばかり読んでいても良いんじゃないか?


それは学部生、大学院生、若手の研究者など
若い方々に対して無責任なものの言い方ではないかと
言われる人もいるかもしれません。
でも、もしずっと「異端」ばかりで、
「本流」の「本流」たるゆえんが、
理解できなくなるって言うなら、
それはその人の限界なわけじゃないか?
「異端」ばかり読んで、
「本流」の「本流」たるゆえんがわからなくなる程度なら、
研究なんて不可能ではないでしょうか?


まずは好きなもの、
思いっきり読んで下さいと思うのです。
「好きなもの」をまずは見つけること、
これが大事で、
次に、「異端」であろうが、
「本流」であろうが、
そこにどっぷり浸かってみてほしいと思います。
どっぷり浸かった、その何かが、
いつしか、その人の「ディシプリン」の一つになります。


そして、でも、その「ディシプリン」から
どうしうもなくはみ出てしまう
自分の「はみだし部分」に気づき悩みつつ、
どっぷり浸かったものから何とか自分を解き放とうと
もがくことが始まると思うのです。
そんな「はみだし部分」があって初めて、
学問は始まると思います。



若い方々には、私なら、
むしろそう言いたいです。



だから「遠藤英樹」の学問なんて、
「遠藤英樹」のはみ出し部分を
私なりに考え続けた結果であって、
私一代で良いんですよ。


じゃあ、なんで、それを教育しているのか?
それは私一代の学問が、
Aさん、Bさん、Cさん、それぞれ一代きりの学問を
はじめる一つの触媒として、
刺激を与えることができるからです。
そういう意味で、教育はあちこちに知性の花を咲かせる、
「花咲爺さん」のような事業なのだと思います。
教育=「花咲爺さん」プロジェクト、説です。