3つの意味での脱力感。

時折、「大学の先生様は机上の空論ばかりで...」と
言う人がいますが、そんな言葉を聞いたときは、
3つの意味で脱力感におそわれます。



第一に、その言い方そのものが、
固定観念によって
ステレオタイプ化されてしまっており、
自分のアタマで考えた言葉ではなく、
誰かの言葉を引きうつしただけの
思考停止状態に陥っていることです。
たとえば私は観光社会学を研究していますが、
机上だけでなんて研究ができません。
フィールド(現場)と机上の往復がつねにあります。
いや「机上」と言うか、本はよく電車の中で読むし、
イデアも結構クルマの中でわくから、
私の場合、「車上の空論」です。
寝るときにも本は読みます。

資本論』なんて、どう見ても寝っ転がって読むようにできているのだ。(p.20)


う〜む。格好いい。浅田彰さんの『構造と力』。


構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて



第二に、たとえ「机上」であっても、
別に良いのではと思うのです。
机上の理論的思考の何が悪いの?
机上で考える人も社会には重要です。
「机上の」ということで、
何か批判した気になっているような、
批判精神の欠如に脱力してしまいます。



そして第三に、そういう言い回しで、
大学教員や研究者を批判した気になってしまう、
反知性主義に脱力します。
「知識や知性なんて役に立たない」なんて言う人ほど、
歪んだ形で知性に憧れを持っていると思うのです。
別に大学の教員や研究者だけが、
知性を持っているわけではありません。
真に知性を持つことを目指し続けている人は、
大学教員や研究者以外にもたくさん
いらっしゃいます。
そういう方は「机上の空論」なんて、
ステレオタイプな批判などされません。
真の意味での知性的な振る舞いを、
私たち現代社会に生きる者は、
目指すべきでしょう。


今、私たちに求められているのは、
知性的な行動ができる大人、
知性的な思考を兼ね備えた行動的な地域社会の担い手、
知性的なビジョンを持つことができる企業家、
知性的な振る舞いをすることができる政治家
ではないでしょうか?
大学教員や研究者も批判されるべき点は
いろいろあると思いますが、
知性的な批判は、
きっと「机上の空論ばかりですからね」みたいなものとは
違う、もっと生産的なものになると思います。