大学院生レベルって何?

時々、「大学院生レベルの講義をする」という、
シラバスを見かけるが、この種の言葉を見るたびに、
「大学院生レベルって何?」という疑問が起こる。


ある人は、フーコーボードリヤールルーマン等の
思想家や社会学者たちの理論を学ぶということをもって、
大学院生レベルと言っておられる。


別の人は、英語の文献を難なく読みこなせるようになる
そうした英文読解力をもって
大学院生レベルと言っておられる。


また別の人は、因子分析や共分散構造分析等の統計手法や
数理的方法をしっかりと
身につけていることをもって
大学院生レベルと言っておられる。


そうしたこと、それぞれが
間違っていると私は決して思わない。
それらが大切であることは疑いないと思う。
しかし、私自身はそうしたことは、
それがなくては大学院生が
一人の研究者として羽ばたいていくときに
研究そのものが立ち行かぬ、
本質的なこととは思わないのである。



私が大学院生レベルというときに
本質的なことだと思うのは、
ただ一点のみだ。


それは、自分自身が考えたくて考えたくて
考えたら楽しくてしようがない
うずうずするような問いがあるか


ということだけである。
今、万人に納得してもらえるような言葉に
なっていなくても構わない。
いや、むしろ、万人に納得してもらえそうにない、
自分が引き受けなくては
誰もあまり考えてくれそうにない問いだからこそ、
わざわざ大学院まで来て考えようとするのだろう。



「そんな問い、意味ないわ!」と言われようが
何であろうが、
その問いを考え続け、
少しずつでも研究の言葉に紡ぎ、
ゆっくりと納得してもらえる言葉に直していく、
そんな良い意味での「しつこさ」、
これだけが大学院生、いや実は学部生にとっても
学問をする際には本質的である。


自分が引き受けた問いを
考え続け、
研究の言葉に紡いでいくために
必要なら理論書を読み、
その理論書が英文で書かれていたら英文を読み、
イタリア語で書かれていたらイタリア語を勉強して読み、
統計手法が必要なら統計を用い、
数理的方法で演繹的に考えていくべきなら数学を学ぶだけなのである。


理論書を読んでいる、
英文読める、
統計使える、
などは私にとって、
学問の何も保証するものではない。



考えたら楽しくてやめられない自分だけの問いがあるか、
そして、人に何と言われようが、
その問いを手放さない、良い意味での「頑固さ」があるか、
問いを考えるためなら英語でも統計でも、
いろいろな勉強を当然しっかりするくらいの「まじめさ」があるか、
それらが学問を保証してくれる唯一のものである。


そして自分だけの問いは、
大学の先生も教えてくれはしない。
だから学問において人は、
先生の中で培われた知でもなく、
誰かに言われたからしている知でももちろんなく、
「自分の中に生きている知」を
目指さないといけないのである。
そして、この言葉は
いくつになっても、
どんなに学問を積み重ねても、
いや積み重ねれば積み重ねるほど、
自分自身に対して、
跳ね返ってくると思います。
(これだけ書いて、最後は反省の弁か!)