ちゃんとマジで楽しみやがれ!

今日も立命館大学衣笠キャンパス
研究フォーラムです。


午前10時から午後5時まででしたが、
私は昨日、帰宅してから
また自宅で教務関係の仕事をして
疲れ果てていたので、
午後1時から行かせて頂きました。



しかし二日目も行って良かったと思います。
いろいろとたくさん、
気づくことがありましたし、
面白い着眼点を見つけることもできました。



やっぱり研究は面白い!


たとえば「役に立つ」という言葉について
もう一度考えさせて頂きました。



ときどき「社会学って何の役に立つのですか?」と聞かれたり、
「観光社会学なんて研究して、何の役にたつのだろう?」と
書かれたりすることがあり
(私の本『観光社会学の歩き方』のmixiレビューでも
「分かりやすくて読みやすいけど、こんなん研究してどうなるの?」と
書いている人が一人います)、
そのときに「『役に立つ』とは、
何にとって、いつ、どこで、誰に、どのような形で『役に立つ』のかを
考える必要があるはず」と答えたり、思ったりしていました。


そのことが間違っているとは思いませんが、
もう一歩、踏み出しても良いと考えるにいたりました。


つまり「社会学、観光社会学、現代文化論等々が何かの役に立ってたまるか!」と
言うことも大切なのではないでしょうか?

何にとって、いつ、どこで、誰に、どのような形で
「役に立つ」のかを考えたとしても、
それでも、「何の役に立つのか?」という問いは、
どこかで効率性、生産性を含んだ問いであることは確かです。
しかし効率性や生産性ではうんぬんできないもの、
それこそが学問なのではないでしょうか?


自分自身がどうしようもなく問うてしまうことを
焦がれるようにして考える、
それは面倒なことではなく、
無茶苦茶、楽しいことです。
社会学を含めて、学問とは
そういうものでしょう。


恋愛も、自分ではどうしようもなく、
焦がれるように、その人のことを考えるのですから、
学問とはその点では、恋愛に似ているのかもしれません。
だから、学問が「何の役に立つのか?」という問いは、
恋愛が「何の役に立つのか?」という問いに近い
意味のないものだと思うのです。


ただただ楽しいってことに
効率性、生産性を求めるなんて、
とんでもねえ!
「役に立つ」?
そんな志の低いことでどうするんでえ!
ちゃんと楽しみやがれ!
ちゃんと学問に恋焦がれろってんだ!
(なぜ、江戸弁?)


そういう啖呵をきることも
大切なように思いました
(恋愛も焦がれることに向き合って、
たまには恥ずかしいことをするのもいとわず、
ちゃんと恋愛することが大切です。
四角張った真面目さがなくても、
あるいはチャラチャラしたイメージの人でも
そんなことは全く本質的ではないと
私は考える方ですが、
学問も恋愛も楽しむことをマジでやらなかったり、
楽しむことから自分自身が逃げているのに、
そのために当の学問や恋愛を茶化すのは大きらいです)。


ノーベル賞をもらった人の学問だって、そうですよ。
彼らの学問が何かの「役に立つ」かどうかなんて、
ご本人である研究者にとって二次的なことで、
むしろ自分が無茶苦茶、楽しかっただけだと思うのですよ。



と、ここまで書いて、ちょうど一年前の
2008年2月23日の日記で同じようなこと書いていました。



う〜む。
なんて成長のない...。





帰り道の京都駅で、
奥さんと食べるおみやげを買って、
自宅に帰りました。