ぜひご一読下さい。

何年も論文を書いていると、
自分の中でだけれど、
ときにとても愛着のある著作が出てくる。



編著書や共著、単独で書いた本、
さらには学会誌に掲載させて頂いたものの中にも、
自分の中で愛着のある著作は多くあるが、
研究季報でもそういう論文がいくつかある。



具体的に言うと、これまで
私自身がとても愛着を持っている紀要論文は、



社会的リアリティとしての「理解」と「誤解」
介入する社会調査



等々である。



前者は、「理解」と「誤解」の同型性に着目し、
「理解」「誤解」は、
社会的なリアリティとして構築される言説によって
形成される現象に過ぎず、
したがって実は「理解」と「誤解」を分けるものは、
コミュニケーションの内容(中身)ではなく、
「理解(誤解)」に関わる言説が構築される際の政治性
(社会的せめぎあいにおけるポリティクス)なのだ
ということを述べたものである。
30代はじめの若い頃に春休みいっぱい使って書いたもので、
今から見ると、もっと展開のしようがあっただろうとか、
もっとここは違うレトリックができるだろうと思うが、
何となく愛着があるものとなっている。
もうすこし平たく言うと、
人は他者にとても残酷で暴力的だけれど、
だからこそ人は他者に優しくなれるんじゃないの?
ということを学術的に述べようとしていたものである。


後者は、社会調査は社会のリアリティに介入せざるを得ないこと、
だとすれば、リアリティを客観的に把握するという意味は何なのか、
むしろリアリティに介入することを
もっとポジティブに学問は
とらえてもよいのではないかということを述べたものである。



そして今回、季報に掲載させて頂いた拙稿、
「社会構想における観光の可能性」も、
私としてはとても愛着を感じる論文になっている。
ぜひご一読下さい。


Sud先生、拙稿に対する早速のアプライ、
ありがとうございました。
先生と研究のやりとりをしていると、
いつもエネルギーが充填され、
とても元気がでます。