大学教育の中で私が目指そうとしているもの。

いままでブログで書いてきた、
私自身の大学教育のあり方に関する考え方は、
以下のような5つに集約できるような気がします。


1)
学生さんは自分自身が大学のなかで
学問、友人関係、いろいろな活動など、
たくさんのことを主体的に学ぶ存在であって、
「私の」学生というちっぽけな存在じゃなく、
私との関わりでだけで語るような存在ではない。


2)
自分だけの問いは、
大学の先生も教えてくれはしない。
だから学問において人は、
先生の中で培われた知でもなく、
誰かに言われたからしている知でももちろんなく、
「自分の中に生きている知」を
目指さないといけない。


3)
「遠藤英樹」の学問なんて、
「遠藤英樹」のはみ出し部分を
私なりに考え続けた結果であって私一代で良い。
しかし私一代の学問が、○○さん、△△さん、□□さん、
それぞれ一代きりの学問を
はじめる一つの触媒として、
刺激を与えることができるからこそ教育をする。
そういう意味で、教育はあちこちに知性の花を咲かせる、
「花咲爺さん」のような事業である。
教育=「花咲爺さん」プロジェクト説。


4)
教育は祈りにも似た錬金術であり、
人は他人が思ってもいなかったような才能を開花させ化ける、
それを祈るように待つことが教育である。
高校時代の成績なんかよりも、
むしろ、そんなのを超えて
自分の何かをブレークスルーし変化していくこと、
これが大学教育の本質であり、
その意味で大学教育は「与える(give)」ものではなく、
すべからく自己教育であるべきで、
教員は学生さんの自己教育のメディア(触媒:media)である。


5)
「何ものにもかえられのなさ」、
「置き換えのできなさ」、
「唯一無二性」、
そうしたものを基盤とした
教員−学生間の相互作用で培われる精神的土壌、雰囲気
これが大学(ウニベルシタス)という知の共同体には不可欠である。
学生Aなんていう存在は一人もいない。
○○□□さんという固有名を持った多くの人びとがいて、
固有名を有する人たちとの
その一瞬一瞬を大切にする相互作用のなかで
「知の共同体」は形成される。




もちろん違う意見もあるでしょうが、
私自身が何を目指そうとしているのか、
自分の中では見え始めてきているような気がします。
これらはちょっと見た感じ、
説教くさいですが、
そうではなくて、
「楽しく」なきゃ大学じゃない
という感じでいきたいと思っています。