一度、ご一読下さい。

内田樹さんのお書きになることは、
賛同できるものが多いのだが、
「?」と首をかしげてしまうことも
少なからずある。


しかし、7月21日に書かれた
内田さんのブログについては、
9割以上、私は同じ意見を持っています。
ぜひご一読下さい。



http://blog.tatsuru.com/2009/07/21_1120.php



すべての講義が、コレージュ・ド・フランスばりに
濃厚な講義なら半期10回でも良いという
過激な先生も知り合いの先生にいらっしゃいましたが、
そこまで過激ではありませんが、
実はちょっぴり賛成だったりします
(でもそもそも、そんな濃厚な講義を展開できていないので、
実際には私はダメですけど)。



同じように、GPAについても
私としては思うところがあります。
そもそも、秀を4点、優を3点、良を2点、可を1点、不可を0点とし、
学生さんの成績票から、点数化した秀・優・良・可・不可をすべて足し
平均値を出すことだけで、
学生さんの学習到達度が分かるというのなら
教育に苦労なんかないよ。


もちろん、そのすべてを否定するつもりはないが、
それ「だけ」で大学教育における
学生評価を決してするべきではないと思っています。
学習達成度の高さなんて、
一様ではなく、その基準は
いろいろあって良いのだから、
そうした基準が一定であることを前提にしてしまうと
決定的にまずいと思います。



たとえば、想いやこだわりが人一倍あるのはよく分かる。
でもロジックの運び方はまだちょっとたどたどしいし、
自分の考えを提示するのも不器用。
ただし、こだわり抜いたやつに特有な「発想の面白さ」は抜群
という学生さんの評価を、
どう考えるのか?



GPAだけで考えたとき、
こうした学生さんがこぼれ落ちてしまうだろう?
でも、そういう学生さんの中には、
大きく化けたりする人も多いのです。



それをGPAだけで学生評価なんかしてしまったら、
よけい大学に活力がなくなっちゃうんじゃないか?



そういうものではない、
教育・研究の理想や理念を絶対に捨てたりしない、
学生評価を私たちは、目指すべきでしょう。
そのかたちがどういうものか、今は見えなくても、
それを具体的なかたちに描いて
実現していくのは不可能ということにはならないと思います。


文部科学省だって、15回講義やGPAをするのが目的ではなく、
大学教育の質の確保が目的なんでしょう?


15回講義やGPAが一人歩きしてしまっていますが、
大学教育の質を確保するための手段の、単なる一選択肢として、
これらを位置づけるべきだと思いますよ。



あとGPAで気に入らないのは、
これがわりと、アメとムチ(reward and punishment)の考え方に
結びついているところです。
学生さんのGPAが高かったら、どうして報償するの?
それは自分の学びやん。
大学が学んで下さいって頼んでいることじゃないやん。
逆にGPAが低くても、どうして履修制限などを与えないといけないの?
それも、同じく自分の学びの問題やん。
学生さんの学びをサポートするなら、
教員は努力を惜しまないけれど、
でもあくまで学ぶのは
大学や教職員のためではなく、
学生さん自身のためでしょう?



教員はできる限り分かりやすく、
学生さんの興味を喚起できるように工夫するのは当然。
でも、それで学生さんの学びが深まったとしても、
それは教員のおかげじゃなくて、
学生さん自身の成果だよ。
そうして教員なんかいなくたって、
自立して考え行動し、自らの幸せをつかみとっていける力を
獲得する場所が大学というところだよ。



さらにアメとムチで動かないところに、
教育の教育たるゆえんがあるんじゃないの?
それこそが教育の質の高さを確保する前提じゃないの?