「大学=多様性」論。

今日は会議が2つで、
その後、教職員の人権研修会と、
大学の親睦会でした。



最近、以前よりいっそう、
大学はいろんな人がいて、
それぞれがいろんな考えをもっていたり、
いろんな行動をしたりする方が面白いと思うようになりました。



そのうえで、そうした人同士が、
お互いの考えを時には熱く、時には優しく、
政治的な思惑などいっさいなく、言い合いながら、
違いを違いのまま受け容れつつ、
それぞれの良さを理解し合える場、空間
(大学における公共圏)があれば、
最高だと思っています。



だから大学における教育は
すごく大切なんだけれど、
同時にかつ、あるところで
いかがわしいものであるべき
というのは私の考えですが、
そうした考えとは違うという人がいるのは当然で、
みんなが同じ意見なんかになったら、
全然面白くないやんと思っています。



だから大学はサービス産業だという意見の人がいても
まったく良いと思うのですが、
ただ「大学はサービス産業だ」という表現は、
あくまでメタファー(隠喩)であることは踏まえておいた方が良いと思うのです。


教育を「(まるで)商品(のようだ)」と考え、
学生さんを「(まるで)(教育という商品を消費する)消費者(のようだ)」と、
そして大学を「(まるで)サービス産業(のようだ)」と位置づける。
これが「大学はサービス産業だ」という表現になっているわけですが、
()の部分、つまり「まるで〜のようだ」を
隠喩はなくしていきます。


隠喩とはあるものの特徴を
ぱっと明瞭に浮き彫りにできる表現ですが、
同時に喩えられたものとの違いを隠してしまう性質を持っています。
たとえば「彼女は花だ」というのは、
「彼女は(まるで)花(のように美しい人)だ」ということですが、
「まるで〜のようだ」をなくすことで、
「彼女」と「花」の差異、違いを見えなくしてしまいます。
その一方で「彼女」の美しさが明瞭になるという表現技法だと言えるでしょう。
メタファー、隠喩とは、
隠しながら示す、示しながら隠す表現なのです。



現代における大学をとりまく問題点の多くは、
「大学」を「サービス産業」に喩え過ぎたあまり、
両者の差異が見えなくなってしまったことで
生じていると私は思っています。
だからこそ再度、「大学はサービス産業だ」はメタファーに過ぎないこと、
両者は根本的に違う部分があるということ、差異があるのだということを
徹底的に強く確認しておいた方が良いと私は思っています。
これは「サービス産業」をどう定義するのかという問題とは、
ねじれの位置にある、それとは微妙にずれた問題です。



メタファー、隠喩は私たちの表現において大きな武器です。
しかし隠喩が「生きた隠喩」(リクール)ではなく、
「死せる隠喩」になっているばかりではなく、
「死せる」隠喩が現実の「生きた」場面を様ざまに拘束してしまう、
「憑いた隠喩」になっている気がするのです。


でもサービス産業それ自体は現代において重要な領域ですので
(私も実際そう思います)、上のことをふまえても、やはり、
大学をまるでサービス産業のようにとらえた方が
大学が良くなるだろうと考える人がいることは
(大学をとりまく現状をふまえた場合には私はまったくそう思いませんが)
まったくあって当然のことですし、
そもそも同じ考えの人ばっかりだとつまらないです。



大学の先生なんて、
いろんなタイプがいた方が素敵だと思いますよ。
すごいできる人
やれやれな人
格好いい人
正義感のある人
ダンディな人
ヘンコな人
美形な人
癒し系な人
ちょっと怪しげな人
面白い人
残念な人
うるさ型の人
優しい人
几帳面な人
いろんな考え、いろんな性格、いろんな行動パターンの人が
うじゃうじゃいるのが大学の良さでしょう。


つとめている大学において自らが形成する、
教員と学生さんの相互作用
教員と教員の相互作用を
その時々において、かけがえのないもの、
唯一無二なものとして愛し、
しかしその愛し方は人それぞれ多様、
それが大切でしょう。


こんなん、ようけ連れてやってまんねん的な大学
あんたもその一人ですがな的な大学
ああ、そうですか。やってられまへんわ的な大学こそが、
現代において無茶苦茶、大事だと思います。



生きた隠喩 (岩波モダンクラシックス)

生きた隠喩 (岩波モダンクラシックス)