交渉で困る人。

交渉や折衝をする相手として一番困る人は、
中身が凡庸なのに、自分は切れると思っている人である。


これは困る。
何が困ると言って、
「〜なことも考えて頂かないと...。分かりますか?」と言って、
ちょっとこちらを嘲笑気味に見て、
決まった!みたいな顔をするのだが、
「あの...。そのことなら、○○頁に書いてありますけど」
的なことがとても多いからである。
こちらが、そう指摘すると、大概、お怒りになられ、
より交渉が進みにくくなる。
やれやれである。



「自分は切れる」と思われることは
まったく構わない。
しかし、その場合、凡庸であることを1%も
見せてはいけない。
そういう人は
人が人である限りもつ
凡庸さであることの楽しみやゆとりを
かなぐり捨てて、
「知の煉獄」を生きねばならないはずだ。
これは、つらいぞ〜。



かと言って、「自分は凡庸なので」という人は、
私はあまり好きにはなれない。
そういう人は、どこかで、
自分は切れ者であると思っていることが多いからである。
「自分は凡庸なので」という人は、
切れることを1%も
見せてはならない。
人が人である限りもつ切れることのプライドを
かなぐり捨てて、
「自分は知らないことばかりだから」と人に教えをこう。
そうした態度はおそろしく尊い
まさしく「無知」という「知の煉獄」を生きねばならないのである。
これも、つらいぞ〜。



しかし、それこそが、「無知の知」の意味ではないか?
絶対的な無知と絶対的な知は通底する。
ぎりぎりの絶対的なレベルでのアイロニー
その意味で「無知の知」が用いられるべきであって、
「まだまだ知らないことが
いっぱいあるなあって知っているよ」
(イタリアくん風に)的なことを
言うための言葉ではない。


「知の煉獄」も「無知の煉獄」も、
そこで生きる人がたくさん増えちゃったら、
社会なんてわやくちゃになる。
だからこそソクラテスは、
裁判にかけられたのではないか?



結局、「知の煉獄」も「無知の煉獄」も、
私たちは生きることができないのだとすれば、
そこに残されているのは、
自分が凡庸であることは分かりつつも、
その都度、相手や状況に誠実に向き合い、
問題の突破口を知ろうとする態度のみである。
相手を嘲笑気味に見たり、
自分の方が切れるぜみたいな顔をしたり、
書いてあるのに書いてないといったり、
そんなことではなく、
ちゃんと誠実にあたたかく笑顔で向き合い
共に問題とたたかうこと、
これのみである。