奥さんの誕生日。

今日は天皇誕生日で祝日でしたが、
同志社大学はお休みではなく授業です。


2009年最後の同志社大学現代社会論」を
講義してきました。


往復の電車の中で
中沢新一『はじまりのレーニン』を
読んでいました。
以前、読んだときには、
それほど面白くなかったのですが、
今回、むちゃくちゃ面白く読めました。
あまりに面白かったので、
行きの電車で一駅乗り過ごし、
大和西大寺で降りるところを新大宮まで行ってしまいました。
気をつけなければ...。



はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

はじまりのレーニン (岩波現代文庫)


これを読んで考えたこと。


ラカンの「現実界」とは「想像界」「象徴界」の
裂け目から現れる、無限の「砂漠」なのであって、
想像界」「象徴界」があってこそ、
そこの裂け目にふいに現れるのものなのだ。
資本主義の「現実界」とは、その意味では、
第三世界における「貧困それ自体」であり、
イラクの戦地でくすぶる「煙そのもの」であり、
私たちをたえず不安に陥れる「不気味なもの」である。
これは、資本主義の「想像界」「象徴界」があるからこそ、
その裂け目に現れてくる、資本主義の「物自体」である。
私が考える「外部」とは、こういう「現実界」とは違ったもので、
『はじまりのレーニン』の言葉を使って言うと、
レーニンが魚つりで、
釣り竿にあたりを感じたときの感覚、
「ドリン、ドリン」の快楽であり、
そのときにあげたレーニンの笑い声なのだ。


ということです。



そういえば、かつて20代なかばの大学院時代に
英文で書くようにと言われて提出したニーチェ論のレポートは、


ニーチェの哄笑
(Nietzsche's roaring laughter)


というタイトルでした。
マルクスニーチェ
彼らに共通するものは「笑い」であること、
しかしニーチェの「哄笑」は、
マルクスの著作に見られる「悪魔的な哄笑」と違って、
どこか最後の最後に、「ひきつり笑い」となってしまうこと、
それが実はニーチェの思想の限界ではないかということを論じたものです。
笑い、快楽、楽しさ。
こういうものにずっとこだわってきたのかな?



そして今日は奥さんの誕生日です。


おめでとう!!!


不思議なことに、
出会った頃と同じように可愛い。


クリスマス・プレゼントをかねて、
前もってプレゼント交換はしていましたが、
今年はそれに加えて、シャンパンをリボンで包装してもらい、
後ろ手に隠して家に入り、サプライズで渡しました
(昨年度はシャンパンではなくお花です)。


さすがにムーンウォークで登場はしませんでした
(古っ。さすがバブル世代)。




来年はどんな渡し方しようかな。
楽しみです。えへへ。
奥さんのクルマのダッシュボードのうえに
そっと黙って花束、置いておくか?
しかし仕事おさめの後でクルマ乗る機会がなく、
気づかれなければ悲しいな
(勝手にやってくれ?
たしかに)。