ソクラテス的対話(dialogue)か...。

この前の木曜日に、一年前、
大学院に進学したゼミの卒業生と
修士論文について、話を久しぶりに
ちょっとだけしました。


ある領域へ特化して、
テーマをしぼるという
研究戦略を立てていました。
これまでと少し違う領域だったのですが、
研究戦略上では
そういう方がかなり良いだろうなと思いました。


ただ、その領域が、
その卒業生の実存的問題と
きちんと重なり合っているのか
ということだけを聞こうとしました。


私はこれをやりたいんだ。
どうしようもなく考えてみたいんだ
考えたら、とても面白いんだ
だから大学院まで行って学問してるんだ


それが実存的問題です。
そうした実存的問題が研究者には
誰にでもありますが、
その問題が正しいか、間違っているか、
そんなことは誰にも言えません。
さらに研究の戦略が、みずからの実存的問題を
犠牲にしてしまって、後悔するかどうか
これも本人以外の誰にも判断できません。
それは自分で決めるしかないのです。


でも、そういうことまで考えたらどうかな?
といざなうことは、教員もできると思うのです。


ソクラテス的対話(dialogue)のなかで
本人が考える方へ誘惑し、
本人自身がみずから
何かの「気づき」へ歩むかもしれないと対話(dialogue)すること
これが教員の役割だと思います。


光である答えを教えるのではまったくなく、
光の方向を指し示すのでもなく、
どちらに光の方向があるのか、そのこと自体を
「本人が創造していく」ための
跳躍点となるような対話(dialogue)をすること
これが教育なのかもしれません。


さらにまた、
どちらに答えの方向があるのか、そのこと自体を
「本人が創造していく」ことによって、
その人の答えそのものもはじめて
創られるのかもしれません。
答えそのものよりも、
そういうプロセス全体が大切なのだと思います。