「液状化する社会」の観光。

講義ノートをつくっていると、
学生さんにどうやって分かりやすく
明確に伝えようかと考えるので、
自分がこれまでぼんやりとしか
意識していなかったことを
あらためて言語化していき、
本当に勉強になります。


今日は関学の「観光社会学」で
講義ノートをつくっていて、
そう思いました。


Sud先生も書かれていたけど、
持続可能な観光って、
液状化する社会」において
クローズアップされるようになる観光なのだ。


伝統社会に埋め込まれていた、
社会の基盤・絆・根拠が喪失し、
社会のイデア、「真・善・美」など実はどこにも
ありはしなかったのだと気づいたときに、
伝統への回帰の代替として
創出されてきた社会的装置ではないだろうか?


その意味で、持続可能な観光は、
観光のなかのジーグムント・バウマンなのである。


リキッド・モダニティ―液状化する社会

リキッド・モダニティ―液状化する社会


幸福論――“生きづらい”時代の社会学

幸福論――“生きづらい”時代の社会学


だからこそ、バウマンと同様に、
持続可能な観光も
伝統の意義の見直しを要請してくるのではないだろうか?


でも私の立場はそうではないです。
社会の永遠のイデア、「真・善・美」、
そんなもの最初からなかったんですよ。伝統社会にもね。
伝統社会に「うるわしい絆」があったなんて幻想ですよ。


もし「真・善・美」があるとしたら、
それは状態として存在するものではなく、
「真・善・美」とはまったくかけはなれているかもしれないけれど、
私たちが生きているということそれ自体、
いまを生きている私たち一人ひとりの
汗にまみれた顔、
喜びにあふれた顔、
涙でくしゃくしゃになった顔、
仕事で本気になって怒った顔、
笑い転げている顔、
顔、顔、顔ではないでしょうか。
それはどれが「真なるもの」
「善なるもの」「美なるもの」と
言えないかもしれませんが、
その顔にやどる「一瞬の」輝きこそが、
「永遠の」イデアなのではないでしょうか。


永遠なんて一瞬の中にしか実現され得ない。
だからこそ貴いんじゃないか?


ということで、「遊び」の「外部性」への着目へと
繋がっていくんだな。きっと。
(「きっと」って、自分のことやろ!)


講義ノートつくることで、
こんなことを今日は考えました。