講演をしてきました。

少人数の勉強会で、
講演をしてきました。


行政や広域観光の関係者の方々が多く来られている勉強会です。
それらの方々用にとお話したつもりなのですが、
しかし観光のコンヴィヴィアリティの話は受けないな...。


アーレント的な複数性の議論も、
ルーマン的な選択可能性の議論も、
自分たちとは関係ないと思われるようです。
そうじゃないんだけどなあ、実は。


かといって、受けること「だけ」を目的に
講演を考えるというのは、あんまり好きじゃねえんだよなあ。
難しいところです。
ちょっと、いろいろ、考えてみよう。
もっと良いやり方がきっとあるのに、
まだ自分として練れていないだけなのかもしれません。



それと、自分とadaさんの考え方がどうも
かなり違っているようだということが
お互いに分かってきました。
どうも、その方は人間“主体”が社会を“つくる”と
思っていらっしゃるようです。
そのための場づくりをする集まりを
社会的ミッションを共有する
“事業体”としてとらえておられるようです。
人はその“事業体”において何らかの役割を担い
貢献していくべきだと思われているようです。
人を「役に立つ」という点で見られているような気がします。


しかし私は、
人と人の「“間”性(inter-ness)」が
社会を“じんわりとあぶりだす”のであって、
“じんわりとあぶりだす”ことで人間は社会を変えられるとしても
(社会を変えられないなんて馬鹿げていると思っています)、
人間が社会を“つくる”なんて、
そんな“偉い”主体ではないという
考えをけっこうもっています。
そして、そうした場は決して“事業体”などではなく、
社会的ミッションという、賢そうなものがあってもいいし、
なくてもかまわないし
(社会的ミッションによるものよりも、
音楽的セッションによるノリの方が私は好きです)、
ここへ入りたければ入れば良いし、
出ていきたければ出ていけば良い、
自由で楽しく、あたたかな、
あくまで“ふんわりとした場”に過ぎない、
そして人は貢献すべき役割があろうがなかろうが、
自分とちがう他者は大切な存在であるから、
大切にしていきたいし、律義でいたいと思っています。
“事業体”だなんて、とんでもねえと思っています。
人が場の「役に立つ」なんてどうでもいいことで、
役に立とうがそうでなかろうが、
人が「そばにいてくれる」、
「ともに歩み生きてくれる」、
「一緒になって考え、悩み、泣き、喜び、笑ってくれる」
それこそが、きらめくような奇跡なんだと考えています。



どうも一緒にやれねえんじゃねえかと
お互いに思い始めました。
目指すべきものが近いなあと思っていたのですが、
特にその方としては、一緒にやるには、
かなり大きな違いだったようです。
私としてはその集まりには、
かなり楽しんで行っていたので、
違いがあっても、いろんな人がいた方が面白いし
(今から思うとKu先生なんか最高に面白かったです)
意見を調整しつつ一緒にやっていたら
別にいいやんと申し上げたのですが...。


そう言えば「アプローチの差」だと
ご本人との話し合いの中でも仰っておられましたが
(「なるほど...」って、今頃ようやく分かるなよ!)、
そういう差が“事業体”として嫌だと
どうしてもおっしゃるので、
そこまで言われると、残念ですが、
「良い“事業”をしてください。私はしません」と
私から「さよなら」するしかありません。