ポストモダンを徹底させること。

今日は立教大学大学院の方が
修士論文のご相談においで下さいました。


非常に興味深い論考です。
ぜひともがんばってください。


その後、午後1時から6時ちょっと前まで
ずっと会議づくめでした。
つかれた...。


夕方からは9月にご着任された
新任のS先生の歓迎会でした。


その席上、H先生とお話ししていて、
面白い議論をすることができました。
H先生とのご議論は、いつも非常に刺激的です。
自分がまだまだ気づいていなかった点を
対話のなかで気づいていくことができます。


私が思うに、
1980年代、ポストモダンは不徹底だったのです。
ポストモダンを徹底させること、
もはや新しいものなど何もないのだと
「現在性」を「砂漠」ととらえてしまうのではなく、
「現在性」そのものをしっかりと楽しみ
ニーチェはこれを「超人」と言っていたのではないでしょうか)、
奔流のような情動的快楽へと反転させていくこと、
こうしたことが重要だと思うのです。


観光においても、現在のツーリストたちはもはや、
“演出されていると分かって”楽しんでいるのですが、
同時に“演出されていると分かって”楽しむことそれ自体を
忘れるくらいの情動的快楽に“あえて”身をゆだねる
そんな風にマキシーン・ファイファーの言う「ポストモダン・ツーリスト」は
まだまだ徹底できるのではないでしょうか。


メタ・レベルである“あえて”を徹底させると、
“あえて”を消去してしまう
(それ自体がメタ・レベルになってしまう)
のではないかと私は思っています。
メタ・レベルという「概念」自体が摩耗しメタ化するのです。


植木等さん的に言えば、

分かっちゃいるけど、やめられねえ


ということを徹底すると、
「分かっている」ことさえ、無化されてしまう
その瞬間こそが、ポストモダン状況なのかもしれません。



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