学生さんと「伴走する」ということ。

今日は会議でした。


会議では教育をめぐる議論になりました。
私が主張していたのは、それほど厳密な定義が
できるものではないかもしれません。


自分がそれをどうしても問わずにはいられない、
そんな問いを考えること。
答えのないその問いに対して、
自分なりの答えを少しずつでも
創りあげていくこと。
教員は知識を与える人ではなく、
学生さんが何か答えをさがしていくにあたっては、
その媒介者であること。
その背中を見て、学生さんが
「ふーん。けっこう刺激的で格好良いことを考える
大人もいるもんだな」と
思ってもらえるような知的触媒たること。
自分の問いを考え続ける学生さんを
ときには厳しい言葉で叱咤激励しながらも、
基本的には、あたたかい木漏れ日のもとで吹く風のように、
つねに柔らかく受け入れること。


教育で必要なのは、
そういうことではないでしょうか?


それが、学生さんと「伴走する」ということだと思います。
私が言いたかったのは、多分、そういうことだと思うのです。


学生さんが、みずからの人生に自由をもたらしながら、
ゴールに向かって笑顔で走り抜けるために、
その基礎体力をつけていくときを
一人ひとりの顔を見ながら伴走することが
大学の学部教育ではないでしょうか。


誰かが、みずからの人生に自由を決してもたらしてなどくれない。
みずからの人生に自由をもたらしてくれるのは、
自分自身でしかない。
これは、遠藤ゼミの基本方針でもあります。


その意味で、一人ひとりが人生の主人公であり、
他の誰でもない、自分自身の応援団なのです。
教員ができるのは、
精一杯、みずからの人生を走り抜ける
基礎体力をつけるために、
ときに見ないふりをしながら待ってみたり、
ときに手を静かにさしだしたりしながら、
そっと背中を押すこと、
学生さんが「よし!がんばろ」と思えるような
格好良い大人でいるように努力すること
(事実、格好良いかどうかは別にして)、
それくらいのことでしょう。


会議のあと、奈良市に遊びに来ていた
奥さんと奥さんの同僚の方とで、
奈良の街で食事をしました。