サンデルの思考実験に対する違和感。

マイケル・サンデル
『これからの「正義」の話をしよう』においても、
とりあげてられている、
フィリッパ・フットというイギリスの哲学者が創った
有名な思考実験に次のようなものがあります。


いま電車が走っていて、ブレーキがきかない。
あなたはそれを陸橋の上からみている。
電車の行く手には工事をしている人が5人いる。
このままでは彼らは電車にひかれて死んでしまう。
ふと横を見ると、陸橋から身を乗り出すように
大男がそれを見ている。
彼をつきおとせば、電車は確実にとまるだろう。
さて、あなたは、5人を見殺しにするか。
それとも大男を突き落として5人を助けるか。


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学


サンデルが言うには、彼が反対する功利主義の立場は、
人数が多い方を助けることをとる立場であるとされています。


ではサンデルのようなコミュニタリアニズムはどうでしょう?
功利主義がそう考えるというなら、
コミュニタリアニズムは、5人と大男、
どちらが自分の所属する社会と同じ人間なのかと
いうことで決まるはずです。
自分が日本人で、大男も日本人なら、
大男を突き落とさないということが
論理的な結論でしょう。


しかし私は、こうした思考実験に
おそろしく違和感を感じます。
その違和感は無茶苦茶、大事にしたいと思っています。


私からすれば、
5人を見殺しにするのも、
大男を突き落として5人を助けるのも、
すごく違和感を覚えるのです。


私なら、こういうでしょう。


立ち竦む


と。


私たちは論理(logos)による結論に「正しさ」が
必ずあると思いすぎているのではないでしょうか?
「立ち竦む」と、5人は確実に亡くなってしまうでしょう。
しかし、それは論理(logos)の力で
選択するものではありません。
私はあるところで、かなりの程度、
デリディアン(デリダ派)なので、
よけいにそう思います。


デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)

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むしろ、これは論理(logos)の力が
まさに無化されつつある臨界点での例と考えるべきであり、
そういう意味で、論理(logos)の外部を志向するべき、
倫理(ethic)の問題であって
その点で「立ち竦む」ことの無力感を引き受け、
私たちはしっかりと胸に刻むべきではないでしょうか?


さらに言うなら、正義に対する無力感を感じず、
サンデルの本を違和感なく読むことに、
逆に《正義》からの遠さを感じてしまいます。



法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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友愛のポリティックス I

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