祝祭を擬態する日常。

友人がTwitterで、
二分の一成人式」について
つぶやいていました。


小学校で10才のときにやるもので、
ご両親への感謝の言葉や、
将来の夢について作文を書くようです。


お、お、おもしろい!!!
社会学者として、すごくツボにはいりました。



二分の一「成人式」があるのなら、
二分の一「七五三」、二分の一「還暦」、
二分の一「古稀」、二分の一「喜寿」、
・・・があってもいいですね。


小学校では年齢的に
二分の一「還暦」ができないと言うなら、
六分の一「還暦」ならいけます。
10才の子どもたちに、
どんな60才になりたいか書いてもらう。
小学生の子どもたちが
周りの60才くらいの人たちを見ながら、
少し年老いた還暦の自分について
思いを馳せる。
良い風景だと思いますよ。



うーむ。
そうなると、
毎年、何かの式典になってしまいます。
たとえば私は今年の誕生日が来たら48才なので(泣)、
五分の四「還暦」と、
3引く二分の一「白寿」です。
引くと足す、入れたら、
もっとあります。


33 1/3

33 1/3


もちろん「区切り」としての
記念の年は大切だと思います。
しかし「二分の一成人式」をはじめ、
毎年何かの記念になるのなら、
日常が記念年化、記念日化し、
逆に祝祭たる記念年や記念日が日常化し、
「区切ってばっかりやないかいっ、
はよ進まんかいっ」とつっこみを入れたくなります。



ひとつ言うとすれば、
別に「二分の一成人式」をはじめ
たくさんの記念をつくらなくても、
10才は10才の、20才は20才の、21才は21才の
35才は35才の、48才は48才の、
その人なりのとても大切な時間が日々あって、
そうした毎日のときを愛おしむように家族、友人、
同僚(私の場合、学生さんも)がともに、
大切に過ごすことでいいやんと思うのです。



ただ学校行事となった「二分の一成人式」は、
社会学者としては面白い社会現象なので、
もうちょっと様子を見続けて、
来年度の「社会学」に取り入れられそうなら
祝祭を擬態する日常、
あるいは日常化する祝祭

という感じで取り入れてみようと思います。



祝祭を擬態する日常においては、
何の記念でなくても、たとえば、
二人が手をつないで歩く散歩道で、
降り積もった雪の下からのぞく花を見つけたときのような、
日常の愛おしさを喪失するとともに、
祝祭の高揚感もまた喪失するのではないでしょうか。

そうだとすれば、それはまさに
「存在の耐えがたき空虚」につながるのかもしれません。
というわけで、精神分析学と絡む問題でもあると思うのです。