空々しさをきちんと背負うことの大切さ。

研究者の紡ぐ言葉が
どこか無力で空々しいと思うこともありましたが、
しかし、そういうように無力で空々しいと思うことそのものが
無力で空々しいのではないかと最近考えるようになりました。


それは、空々しいと誰かに思われるのが嫌だという
自己の願望、自己の欲望に過ぎないのではないでしょうか?


空々しくないように振る舞うことは空々しいことであり、
無力でないようにと願うことは無力なことであり、
欺瞞ではないように振る舞うことは欺瞞であるように思うのです。



そうしたことよりも、
私だからこそ紡ぐことのできる
観光社会学や現代文化論、社会学などの言葉を
少しでも楽しく、魅力的で、刺激的に、
みずからと、みずから以外の誰かに向けて語ることしか
私には結局できないように思います。
大切な人たちが奏でる旋律とシンクロしながら。



たとえ、それが別の誰かにとっては
軽々しく無力で空々しいことでも、
違う誰かの心へと届くことができるのなら
研究者は、その無力さ、空々しさを
きちんと覚悟をもって背負っていくべきではないかと
私は最近あらためて思うようになりました。