“真正性”にこだわる社会の在り方にこだわる。

誤読も一つの読み方であり、
誤読であることそのものについて、
あれこれ言うつもりはありません。


ただ誤読されたその内容を、
さも私が言っているかのように
ブログなどで書かれたりすると、
さすがにちょっと残念な気持ちになります。


たとえば「遠藤は“真正性”にこだわっている」という批判です。


私は“真正性”にこだわったことなど一度たりともありません。
むしろ逆でしょう。
ザ・フーピート・タウンゼント的な
「くそったれ」アティチュード
(「本当のぼくreal me」の“本当real”なんて、くそくらえ!)のノリで
“真正性”なんて「くそくらえ!」と言っているのが
私の立場に近いでしょう。





私は、“真正性”にこだわっているのではなく、
“真正性”にこだわらないとしながら、
どこかでこだわっている(“本当の私”というものもその一つでしょう)
社会の在り方にこだわっているのです。




逆に真善美が大切だとしながら、
真善美というものから、ほど遠いかたちで
真善美が実現されてしまうような、
社会的無意識の機制にこだわっているのです。


たとえば、あるお土産がその土地の真正なものでないことを
“知りながら、あえて楽しんでいる”と言いつつ、
でも、あまりにも、それがあからさまであり過ぎると、
人はちょっと残念な気分になったり、
顔をしかめたり、少し恥ずかしさを覚えたりするのではないでしょうか。
(たとえば、奈良のお土産で「八ッ橋」をみたときのような)



人は、どこかで何かが真正であることを「擬態」しようとし、
「擬態」それ自体が明白になるときに生じるであろう、
恥ずかしさを回避しようとする。
真正性とは、残念な気分になったり、顔をしかめたり、
恥ずかしさを覚えたりさせるもの=「社会の猥褻性」に対する
防衛機制に無意識レベルでなっているのではないか。
それが、私が注目する“観光的リアリズム”というやつです。



そんなあたりに、あれこれと、こだわっているわけで、
観光客が本当に「これを本物と思っていない」ことなど、
そうした議論を展開する研究者のほぼ全員が承知していると思います
(『よくわかる 観光社会学』の65頁でも明確に私はそのことを書いておりますが)。


よくわかる観光社会学 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

よくわかる観光社会学 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)


にもかかわらず、あえて、そうした議論を展開していることには、
何らかの研究上の意図があるのです。
“真正性”にこだわらないとしながら、
どこかでこだわっている社会の在り方にこだわるという
メタレベル、さらにもう一つ異なるレベルの
メタ・メタレベルといった、真正性問題の向こう側へと
最近の研究は進んでいるのです。
橋本和也先生の最近のご研究も
その線上に位置づけられるものではないでしょうか。



そういう研究上の意図を見ようとされずに、
「私が“真正性”にこだわっている」とされる方は、
私の説であるということを擬態して、
実は、真正性に関わる、他ならぬその方の何らかの欲望が
無意識のレベルで、ご自身のもとへ
回帰しているのではないかと思えてしまうのです。
(批判という形をとった、欲望の回帰)



私は観光“社会学”をやっているので、
私を批判される方は、できれば、
次のような批判をしてくれると
無茶苦茶楽しいのになあと思います。


正しい批判ではなく、楽しい批判を
“すべき”なのではなく、
“した方が楽しい”と思うのです。


つまり、こうです。
遠藤は「“真正性”にこだわる社会の在り方」をしているというけれど、
むしろ、こういう考え方をした方が、
社会の在り方を鮮やかに映し出せるぞ、
こんなのどう?という、
ご自分の社会認識をポジティブに語る批判の仕方です。


そうすると私も「おー、なるほど、そうか!」となって
お互いが無茶苦茶、楽しいのではないでしょうか。


互いが高め、楽しい。
私にとって批判とは、そういうものでしかありません。
私は「真正性」などどうでもいいですが、
ただ一つ、「“あなた”と語り合うこと」、
それだけは大切であると思っています。
そして、いつしか、“あなた”が
取り換えのできない人になってしまっている
それだけが大事なのです。




面倒くさいやつかもしれませんが、
ベランダで星を見ながら、指さし、
答えや真実などなくても、
“あなた”と二人でしゃべること、
それだけが大切だと思っています。