言葉の温度。

私は、熱い人がもつ(独善性のような)
ある種のいかがわしさがあまり好きではなく、
かと言って逆に冷たい人にも
大事な何かが欠落していると感じています。
だからこそ、何かに熱くコミットするのではなく、
しかも冷たくなる、ぎりぎり一歩手前の、
「涼やかさ」みたいなところでふみとどまり、
その中に潜む自己の冷たさにとまどいつつ、
それでも、その対象からデタッチする(距離をおく)こと、
こうしたことが、言葉の温度としては好きです。



学問も同じだと私は思うのです。
何かに熱くコミットするような
熱い学問は(熱い人と同様に)いかがわしいと感じてしまいます。
かといって冷たい学問は何か大事なことを欠落させてしまっている。
あるものからデタッチし、距離をおいて、
つねに「異人(まれびと)のごとく」考察を展開すること、
でもいつもそばでそっと寄り添うようにあること、
そんな学問が好きなのです
が、
そうした学問は、
何かに熱くコミットしなければ不安だという人からすると、
ときにウザく映るようです。
すべての学問とは言いませんが、
ある種の学問なんて、熱さに対立しないかたちであっても、
熱さを冷却させる装置としてある
のであって、
そういう意味で、自分が熱くなれることに役に立たないではないか!と
怒ることが的外れだと思うのです。



異人論序説 (ちくま学芸文庫)

異人論序説 (ちくま学芸文庫)



熱いかどうかは人の好みかもしれませんが、
そのときでも自己の内部のどこかで
自己が自己からデタッチする(距離をおく)ための
冷却装置を備えたうえで、
「熱さ」をもってもらいたいと思います。
そういう場合の「熱さ」は私にとっても、
面白く感じます。





宇野常寛さん『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)を読んでいると、
いろいろ考えられて、非常に面白いです。



リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代