「祝い」としての教育。

私は、大学における実学教育を
否定するつもりはまったくありません。
たとえば看護、福祉といった分野において、
こうした実学教育がなくては、
非常にマズイと思います。


しかし、その一方で、
こうした実学を社会的な文脈のもとで位置づけること、
ときには、ずらした視点をもって実学のポジションの再考を促すこと、
そうしたことを可能とするリベラルアーツ教育が、
大学においてははずせないと考えています。


こうしたリベラルアーツこそが、
大学を大学たらしめてきたのではないでしょうか。



さらに言えば私が思い浮かべる教育は、
松下村塾吉田松陰がやっていたようなものです。
「制度」とか「志」とか、そういうエライ感じのものではなく、
「体温」「ぬくもり」として
吉田松陰がもっている雰囲気のことを言っています。
彼は、どんな塾生にも、
「○○は、ここが素晴らしい!」と言い続け、
励まし続けましたが、
そういう雰囲気です。
人はそう言われたら、
なんかそんな気になって、
やれてしまうようになるものです。


その塾生に、たとえ資質みたいなものがなかったとしても、
「ここが素晴らしい」と唱え続けていると、
不思議なもので相手の内部に化学変化が起きて、
まるで無から生まれたかのように、
そうした資質が湧き上がってくるものだと私は思います。


教育とは、化学変化を起こすための
相手に対する祝福=祝い(逆は「呪い」となる)ではないでしょうか。
もちろん化学変化がどうも起きないということもあります。
しかし、それでも、そう言い続ける。
それによって、化学変化を「待つ」。
祈りながら「待つ」。
それが教育において重要だと思うのです。
そのために人は信じられるということを、
体験として染み込ませていくこと。
これが大切だと思うのです。


学生さんの方も、人は信じられる、
愛されるのだという体験が染み込んで初めて、
自分は学ぶべきこと、知らないことが多い、
先生もそうだけれど、でも
先生は「知らないことが多い」ということを
自分よりも深く知っておられるのだと考えることができ
(実際はそうでもないかもしれないけれど)、
自分が「無知の知」にまだまだ
無自覚=無知であることを素直に見つめ、
だからこそ、先生から学びたいと真っ直ぐに思えるようになり、
この世界がいろいろな色に見え得るということを
ポジティブに受信できるようになるのだと思います。
何かを声高に発信する力以上に、
そうした「受信力」「感受力」を学生さんに
染み込ませていくことが
これからの大学教育において
大切ではないでしょうか。