「ゆるい」「ぬるい」という言葉に対する違和感。

いまの大学が「ゆるい」「ぬるい」という言葉に対して、
違和感を覚えるのは、ずっと変わることはありません。


「ゆるい」「ぬるい」という言葉で、
いったい何を言おうとしているのか、
あまりにも、曖昧過ぎます。


たとえば、「ゆるい」という言葉ですが、
それは一体、何がどのように、どのような視点で「ゆるい」のでしょうか?


確かに、「いわゆる『楽勝科目』ばかりある」という意味で
「ゆるい」のであれば、それは違うでしょう。
そういうあり方は変えていくべきだと思います。


また「学生さんのことを放ったらかしにしている」という意味で、
「ゆるい」というのでも、それは違うと思います。


しかし学生さんが「自由に」学ぶことができるという自由度が
しっかりと確保されているという意味で、
「ゆるい」のであれば、それこそが、
大学にとっての存在意義(レゾン・デートル)なのではないでしょうか。
大学が自由に主体的に学ぶ場でなくなってしまうとすれば、
何のための大学なのでしょう?


あるいは「視点の柔軟さ」という意味で、
「ゆるい」ということも大切なことではないでしょうか?


そのあたりをしっかりとおさえながら考えていくためにも、
「ゆるい」「ぬるい」という言葉を聞くと、
私はとても違和感を感じ、もうちょっと
丁寧に言葉を選ぼうよと
思ってしまいます。


社会学者としては、そういうときに、
ついつい常識を問うために、
「ゆるい」「ぬるい」で何がいけないの?
と、分かりにくい表現を口にしてしまうわけですが、
考えていることは、もう少し丁寧な言葉を、
ということです。