「主体性論の脱構築」としての「主体性の贈与」論。

「人が主体である」ということは、
「主体であることを他者に贈与すること」を意味する。
そんなことを英語の論文で書きました。



主体性論の否定ではなく、
主体性論の脱構築として、
主体性の贈与みたいなことを考えています。




分かりやすく言うと、
たとえば親子でも、
恋人でも、夫婦でも
友人でも良いのですが、
人は誰かを深く愛し、
その人を守る主体であろうと
するときがあります。
そのとき愛している主体、守っている主体は
自分だと思っていますが、実は、
その当の相手からいつも
愛され守られているということです。



愛し守る主体は、愛され守られる者(受け身の存在)として、
愛する主体性、守る主体性を
知らず知らずのうちに、相手へと譲り渡し、贈与している。



学生さんとの関係でも、そうしたことは言えます。
教えることは、知らず知らずのうちに、
その学生さんから、多くを教えられている。
とすれば、教える主体性は、
いつの間にか学生さんのもとに在るのです。
教える主体という主体性の譲り渡し、贈与が、
そのとき生じているのではないでしょうか。



いや例としては、
つないだ手と手で、
自分が相手の手をつないでいる主体だと思っていたら、
いつの間にか、相手から手をつないでもらっていたのは
自分だということに気づいた。
こういう例の方が分かりやすいかもしれません。



最近、好きで聴いている曲。