「観念論はダメだ」という言葉。

大学の教員に対して、
「観念論はダメだ」という言葉を
投げつける方がいます。
その言葉には、少なくとも5つの点で疑問符がつきます。


1)この「観念論はダメだ」という言葉は多分、
「実際にできるかどうかが大事で、
アタマで考えているだけではダメだ、
机の上で理屈をこねくりまわしているだけではダメだ」という
意味だと思いますが、そのときの「観念論」という言葉は、
現実に対するアプローチの一つにすぎない
「現実主義(リアリズム)」(それもかなり劣化した)ではない
ということに過ぎないのではないでしょうか。



2)「現実主義(リアリズム)」の対局に
「観念論」を置いていますが、
これは間違いではないでしょうか?
多分、「抽象論」とか「理想主義」が
その対局ではありませんか?
であるとすれば、「抽象論」「理想主義」それ自体が
なぜ悪いのか、きちんとご説明されるべきではないでしょうか?



3)100歩ゆずって、それは不問にふすとして、
そもそも、大学は「理屈をいうところ」ではないでしょうか。
その方も小中高校や大学などで、
「理屈をこねくりまわす」ことを学べたから、
いろいろな現実的な場面で折衝できたり、
議論できたりするのではないでしょうか。



4)1兆歩くらいゆずって(ほぼあり得ないくらいゆずりますが)、
「理屈をこねくりまわさない」大学があるとして、
「観念論」自体の言葉の意味も違うのではないでしょうか。
ヘーゲル『大論理学』やハイデッガー存在と時間』の
最初100ページくらいは読んでから、
「観念論」という言葉をつかったらどうでしょうか?



5)それを読んでいなくても
実は別にかまわないのですが(って私もそんなに読んでいない)、
では、そうした言葉は不用意に使わないというくらいの、
言葉に対する感受性(感じやすさ)は
持つべきではないでしょうか。
ご自分の言葉に対する鈍感さそのものに鈍感なあまり、
それに気づかないですんでいるだけで、
相手に対してそのような言葉を不用意に
投げつけるということはいかがなものでしょうか。



ということを、思ってしまうのでした。