「奈良」という言葉を禁止のまちづくり。

奈良のまちづくり活動の中での
話し合いをしていると、
「奈良は〇〇だから」とか、
「奈良は〜と違って」とか、
「奈良は△△だけれど」とかといったように、
奈良を主語(subject)とした
言葉の用い方(=語用)が目立ちます。



ちょっと前から、これが気になっていたのですが、
こうした言葉の用い方(語用)をすることによって、
何か「奈良なるもの」が最初からあるかのように
錯覚してしまうのではないでしょうか。



もしそうだとすると、せっかく
「まち“づくり”」をしようとしているのに、
創りだすまちそのものが
すでに最初から前提にされてしまっていることになります。
これって、とても、もったいないことだと思うのです。



だから、絶対にというわけではないのですが、
一度意識して、「奈良」という言葉を禁止して、
まちづくりの会合を開いてみるというのはどうでしょう?



「奈良」という言葉を出したら、
「うわっ!罰ゲーム!!!」みたいに遊びを取り入れながら、
まちづくりの会合をしても面白いと思うのですが、今度、提案してみようっと。


「奈良は〇〇だから」というように奈良を主語とする。
これをやめるとすれば、では、
何を主語とすることが見えてくるでしょうか?
方向性はふたつ。



ひとつは、「正しいまちとは」というものを
主語とするやり方です。
私は、これは嫌です。
もうひとつは、「私は〇〇というまちになったらとねがう」と
私を主語とするやり方です。
それぞれが、自分の願うまちを思い描き、
交流するというものです。



そう考えると、
まちづくりとは、私の希みと、あなたの希みを、かけあわせていくことだ
と定義できるのではないでしょうか。
まあ、これも一つの考え方ですが。



希みは言葉に託されているという意味で、
まちづくりの会合において
交わされている言葉の分析をするという、
まちづくり会話分析、
まちづくり語用論みたいなものが必要なように思います。