ラテン語で講義だって?

何年か前に、ある先生(その方は語学担当ではありません)が
おっしゃっていた言葉で、
ずっと疑問を感じ、記憶していた言葉があります。



昔の大学は学問のすごさ、おごそかさをしっかりと伝えていた。
だから、ある先生などは、ラテン語で講義をしていた。
今の授業評価は、そうした気風をなくしてしまうものだ。



というものです。


確かに今の授業評価は、数値化できないものまでも数値化し、
給与などを含めた教員評価をする
資料とするために行われているようなところもあり、
その点で大いに問題を感じています。
授業評価はもっと授業改善のためにこそ行われるべきなのです。



そして学問のすごさ、おごそかさを伝えていくことも、
本当に大事なことだと思うのです。



とは言え、しかし、
だからと言って、それらがラテン語で講義をすることと、
どう関係しているのだろう?
う〜む。分からない・・・。


学問のすごさ、おごそかさを伝えていくのに、
ラテン語で講義をする理由などどこにもないだろう。
別にラテン語で講義をしなくたって、
いくらでも別の方法で、学問のすごさ、おごそかさは伝えていけるだろう。



やはり、謎だ。



もちろん、大学には学生とのコミュニケーションなど、
お構いなしの、ヘンな先生もいたし、今でもいらっしゃいます。


おまえたちに、オレの言うことが分かるものか!


的に挑戦的な講義を展開する先生です。


実はそういう先生、大学時代、個人的に結構好きだったりしましたし、
今の大学にも大切だと思うのですよ。


そういう先生からは、
「何か訳が分からないけど、
すごそうなこと言ってんな」的オーラを
感じさせられたものです。



でもね。
それは話されていることの深さに関わることなのですよ。
そういうことであれば、
学生はついてくるのです。



でも、そうじゃなくて、ラテン語で講義をするって、
話されていることの深さと全く関係ないやん!
もちろんラテン語を話す必然性があれば別だけど、
そうじゃないのなら、それはラテン語の知識があるかないか
だけが問題になっているのでしょう?



知識の有無(あるなし)、知識の多寡(多い少ない)、
そういうところで、学生さんに対して、
コミュニケーション断ち切ってどうすんの?



それって、


ぼく、あんたたちより、たくさん知っているもんね。
ぼくは偉いんだ。
だからぼくの話していること、
あんたたち分からないでしょ。


と言っているだけでは?
それは、あまりにもくだらないと思うのです。
そんなことを例に出して、昔の大学は良かったって
言わないで下さいよ。



ラテン語使わなくても、
みんなが理解できる言語で話しても、
聞いている人びとに、
学問のすごさ、おごそかさがびりびり伝わって、
ある種の畏怖を感じさせることだってあるのですよ。


マックス・ヴェーバーの講演は、
魔王が話しているように、おびやかすよう印象を
聞いている聴衆に与えたといいます。
こわいよう!



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そういう教師は怖いし、すげえ大事だと思うのです。