多くの大学をめぐる状況で思うこと。

大学(university)の語源は、「ウニベルシタス(universitas)」である。
これは、ラテン語で「一つになる」という意味である。
学問という一つの目標を追求する集団になる。
これが「大学」の語源なのだ。


「教師と学生の集団」
(universitas magistorum et scholarium)
として、思考を展開し、
学問という目標だけを追求する。



もちろん大学の教員スタッフも
かすみをたべて生きていけないので、
経営的な部分をまったく考えないで
やっていくなどということは無理である。
みずからの理想、理念を追求するためにも、
しっかりとした経営的基盤は確保すべきなのだ。



でもね、大学が市場原理を最優先とし、
「ウニベルシタス(universitas)」で
なくなったとき、大学は大学でなくなり、
日本における学問、文化は、
終焉を迎えると思います。


近年の多くの大学をめぐる状況で思うのは、
日本の人びとはそれで良いのかということです。
別に儲からないのなら、
そんなもの要らないよというのであれば、


あっしは教養なぞありませんや!
日本に文化なんぞ必要ありませんぜ!


と世界に大きく声をあげて、
大学をたくさんぶっつぶして、
さっさとお金儲けや政治だけをすることです。
でも「教養(文化)ある経済人」
「教養(文化)ある政治家」
「教養(文化)ある国家」
「教養(文化)ある地域社会」等でなくては、
世界は相手にしませんよ。
とくにリベラル・アーツを身につけていない者は、
世界で通用しません。



まして、大学が儲からないのなら、
要らないという大学の経営者は、
大学を持つべきではないのです。
その人はどんなに学歴が高くても、
「教養(つまり文化)」に欠けていると
思いますよ。


それと大学が「ウニベルシタス(universitas)」、
学問という一つの目標を追求する集団である以上、
何か特定の集団(企業、政党、地域コミュニティなど)に
直接の利益となるものでは必ずしもない
ということも強調しておくべきです。
学問は個別的なものの中に普遍的なもの、
普遍的なものの中に個別的なものを見ますが、
個別的なものにとどまるということはあり得ません。
まして、その利害を第一に考える場ではありません。
たとえば、ある特定の地域コミュニティに資するものを
扱うことが当然ありますが、
それを通して普遍的なものを考察します。
普遍から個別、個別から普遍への
自由で力強い往還運動が学問、教養、文化です。


大学を持つということは、
自分たちの利害のために持つのではなく、
自分たちが教養や文化を守り育て、
社会全体に豊かな知識と精神をもった人材を送り出し、
最終的には自分たちにも還元されるという、
長いスパンをもった事業のはずです。



自分たちの利益にすぐに直結しないのなら、
自分たちに大学は必要ないという人は、
やはり、世界に向かって大きな声でこう言うべきなのです。


あっしは教養なんぞ必要ありません!