何が言いたいかというと、それは...。

最近、どうも、もしかして、
いや、そうではないかもしれないが、
やはり、どうやら、
自分は大学人としては、
変わったスタンスを持っているようだと
思いつつある今日この頃ですが、
でも、しかし、
まったく、まさに、
そうではないと思いたいのに、
そうは思わせてくれないことがあったりする今日この頃です。



つまりは、言いたいのは、
なるほど、しかるに、
きっと、たしかに、先生の目から見て、
自分が中学・高校時代あまり良い子でなかったので、


成績がよくないからと言って、で?


と思ってしまう部分がどうしても
拭い去れずにいる今日この頃なのです。



教育は祈りにも似た錬金術



人は他人が思ってもいなかったような才能を開花させ化ける、
それを祈るように待つことが教育
これが私の持論ですが、
高校時代の成績なんかよりも、
むしろ、そんなのを超えて
自分の何かをブレークスルーし変化していくこと、
これが大学教育の本質ではないかと思うのです。
その意味で大学教育は「与える(give)」ものではなく、
そこにいる期間が
一年間であろうが
二年間であろうが
三年間であろうが
四年間以上であろうが、
すべからく自己教育であるべきで、
教員は学生さんの自己教育のメディア(媒体:media)なのです。
同じく教員も学生さんと接していく中で
学生さんをメディア(媒体)として、
教育者としても
研究者としても
どんどん変化し成長すべき、
これが持論です。



学生さんだけではなく、私も含めて、
俺たちは誰も決して完成していないですよ。
大学はそうしたやつらが集い、
お互いがメディア(媒体)となって
変化していく場ではないでしょうか?
キャンパスにいる人が
お互いをメディアとして交響し合う場が大学だ
と私は思っているのですが、
で、結局、
何が言いたいのかというと、それは





ひ・み・つ。
(うぜえ)