理想の幻視。

私の主張が「理想」である


というコメントを頂いていますが、
いつも、どんな状況でも、自分自身が
必ず同じ「理想」を貫けるかどうかは分かりません。
(えっ?おいおい!)
それほどピュアで、しっかりと芯のある、
えらい人ではありません。



というより、むしろ、
いつも、どんな状況でも、自分自身は
必ず変わらない「理想」を貫くのだ、
なんて声高に言うやつに
ろくなヤツがいません。


そんな風に声高に言うやつに限って、
いざとなると、「理想」をひっこめたりします。



ただし、この現在において、
自分がおかれている状況のもとで、
このポジショニングの「理想」を語り、
現在はそれを形にしようとしていること、
それだけは確かです。


健康など個人的な理由、
ご家族の問題、
つとめている大学の事情、
いろいろなことで、
「理想」だけを語っていられないという方は
多くいらっしゃいます
(私自身だってそうです)。


ですから、いまこの段階では「理想」を語れないという方々に
向けて言っているのでは決してありません。
私自身も、具体的な現在のポジショニングの中で言っているに過ぎません。



それを大前提にして言うと、
現代において大人こそが、語ることのできるときには
青くさい「理想」をきちんと言う必要があると思っています。


大人が「理想」を語ろうともしない、
語ることもできない、そんな社会で、
子どもたちや若者たちが
これからの社会を描きだす「理想」を
語りはじめるはずがないではないか。

そう思います。
そこで言うと、



大学がサービス産業である


そういう主張はありだと私は思います。
(自分とは違いますが)



でも、それは「現状」がそうなっているからとかではなく、
現代社会におけるサービスの新しいかたちがこういうもので、
そこにこそ大学の「理想」があるからなんだという議論をしたいと思うのです。
「サービス」に新しい意味をこめているのならいるで、
それは、そもそも「サービス」という概念で表現できるのか?
サービスという概念をこえた新しい言葉を紡ぐ必要があるのではないか。
そういうところまで考えていくべきでしょう。



「大学はサービス産業ではない」というときの、
私の「サービス」概念は古いものかもしれません。
しかし、それならそれで、
上のような議論を積極的に展開していく必要があるでしょう。



私の言っているのは、
「現状」はこうだよね、現実の社会はこうなっているから
大学をこう捉えた方が説明しやすいよねと言う前に、
自分たちは大学の「理想」像をどのように積極的に幻視しようとするのか、
大学の「未来」をどこへもっていきたいのか、
それを説明するのがたとえ難しくても、
それなら、どういう新しい概念、
新しい言葉を紡ぐのかという議論なのです。



明日から出張なのに、
まだ左ひざ痛い。
大丈夫かな?