観光は「○○の装置」ではない?
2011年2月号の『思想』No.1042に
掲載されていた長志珠絵さんの論文
「『過去』を消費する
――日中戦争下の『満支』学校ツーリズム――」を
仕事の往復の電車で読了しました。
過去を想起=創造する装置として
ツーリズム(観光)を扱い、
非常に面白かったです。
ここで創られるのは
未来ではなく、“次世代に向けた過去”なのです。
とても刺激を受けました。
ただ物足りないこともありました。
それはツーリズム(観光)を何かの「装置」として
扱っているということです。
最近、私は、ツーリズム(観光)が
「○○の装置」という単純なものではないと思うのです。
たとえばコロニアル的な心性を発動させる装置、
ナショナリズムを形成する装置
といったものではないと思うのです。
もちろんコロニアリズムやナショナリズムと
ツーリズム(観光)は深い関係を持っています。
しかし、ツーリズム(観光)は○○の装置というものではなく、
コロニアリズム、ナショナリズム、消費資本主義等と同様に
人びとが社会関係のもとで「欲望の星座」としての社会空間をかたどり、
その歴史的=時代的な布置状況の中で、
その意味と形式=内実を
個々の時代において浮かび上がらせているものだと思うのです。
観光も、コロニアリズムも、
ナショナリズムも、消費資本主義も、
すべて同列であって、
すべてが何も前提にできない、
あるのは、実定項ではなくて関係性のみ。
そういう社会空間の布置状況を問題にすべきだと思うのです。
その意味で、もう一度、しっかりと、
フーコーやベンヤミンを再読しようと思っています。
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そういうスタンスで、
日本の戦前の時代状況と
戦後すぐの時代状況と
高度成長期の時代状況と
バブル期の時代状況と
2000年代以降の時代状況を
観光研究を軸につなげて考えてみたいと
いま思っています。
それは、あまりにも大きすぎて
僭越のきわみなのですが、
遠藤バージョンの日本社会論となるものだと思います。