文化相対主義を徹底化する必要性。

"I" cannot reach fulfillment without "thou."
The self cannot be self without other selves.
Self-concern without other-concern is like a tributary that has no outward flow to the ocean.

キング牧師のこの言葉を
コミュニタリアン的にではなく、
もっと緩やかで自由で、
伸びやかな雰囲気で言える社会をというのが、
私の主張の一つかもしれません。



人は他者をサポートすることそのものが、
他者によってサポートされていることになる。


人は他者の手をつなぐことそのものが、
他者に手をつないでもらうことになる。



その意味で、他者は自己にとって本質的な存在です。
ただ他者とつながるのは、他者と「不幸」を共有するためではなく、
他者と「幸福」を共有するためではないでしょうか。



もし「幸福」が他者とのゼロ・サム・ゲームのもとでしか
成り立たない総量の決まったものであるのなら、
その「幸福」の質を変え、
他者と共有することで
さらに増えていくようなものにすることも可能ではないでしょうか?



ただし「The self cannot be self without other selves」とするのは、
一つの立場に過ぎません。
ということは、逆の「The self can be self without other selves」も、
他者の立場としてあり得るということになります。
とすれば、逆の「The self can be self without other selves」も
一つの立場として認めることが大切です。



ただし、それは一つの立場であり、
いくら「The self can be self without other selves」と主張しようが、
「The self cannot be self without other selves」と
同資格のものであるということになります。



それぞれが一つの立場であり、
お互いが違う意見をもつ他者として
認め交渉し合い、必要に応じて、
制度としても何らかのかたちをとるけれど、
それは絶対的なものではなく、
あくまで相対的なものとして
交渉過程のひとつとして、
ローティ的な意味で「あえて」採られた立場に過ぎない。



とにかく、自他の境界性の問い直し、
対話の可能性/不可能性の問題を含めて、
「文化相対主義」をもう一度よく考え直し、
徹底させるような考え方が
現在、とても必要なように思いました
(文化相対主義を徹底化する再考)。



このあたり、もっとしっかりと考えなければ。