ゆっくりと分かり合えない。

人の気持ちはむずかしいなあ。



それでも、むずかしいなりに、
仰ること、よくお聴きすることしかできないけれどなあ。



でも、実は、その言葉そのものに
気持ちがあるわけではないことも
結構たくさんあるんだけど、
そのときでも、言葉にのって、
その言葉と別の意味が届けられているんだなあ。



だからと言って、言葉は偽りでもなく、真実でもない。
そういったものであるように思います。
って、最近は、会議でもどこでも、そんなことをよく考えます。



ということからすれば、
ゆっくりと分かり合えるからこそ、
人は面白いのかもしれません。
いや逆か。



「ゆっくりと分かり合えない」という
不思議さがあるからはじめて、
「ゆっくりと分かり合える」のかもしれません。



奥さんともそうです。
そうか分かっていなかったんだなあと
ゆっくり思うことで、
ゆっくりと分かっていく楽しさがあったりします。



でも、その解は、いわゆる「解」ではなく、
次の瞬間には「分かり合えない」ことへとまた変化していて、
それがずっとループであることが楽しいみたいな感じです。
そのループがあるからこそ、
新しいあなたを発見し続けられるみたいな。



「ゆっくり分かり合えなくなる」
このことはマイナスなのではなく、
大きなプラスの可能性である。
そういうことについては、
ジャンニ・ヴァッティモが『透明なる社会』で
議論していた「不透明なコミュニケーション」と
通底するのかもしれません。
ただ彼のハーバーマスデリダ等の理解は、
シンプル過ぎて、ちょっと私と違うように思います。



透明なる社会 (イタリア現代思想)

透明なる社会 (イタリア現代思想)