「ゆっくりと分かり合えなくなる」ことを愛おしむ。

手をつなぐ。
すると、手をつないで
近くにいるがゆえに、
「ゆっくりと分かり合えなくなる」。



だから話をする。
すると少し、
「ゆっくりと分かり合える」気がして
手をつなぐ。
すると、前よりももっと
近づくことで、また
「ゆっくりと分かり合えなくなる」。



でも、いや、だから、
ただ君が好き。
そのときには、
「ゆっくりと分かり合えなくなる」ことも、
愛おしむように大切にしたいと思うのではないでしょうか。






何か「解」があるように
対話で分かり合えるみたいな、
透明なコミュニケーションじゃなくて、
ディスコミュニケーション
“ちゃんとしっかり”含みこんだ
コミュニケーションのあたたかみ」、
みたいなものをもうちょっと、
社会学の議論で考え直していった方が
楽しいかもしれません。



「分かり合える」ことの深みが出ると、
「分かり合えない」ことの深みが出る。
反対もそうで、「分かり合えない」ことの深みが出ると、
「分かり合える」ことの深みが出る。
ちゃんとしっかり分かり合えないようになるから、
しっかり分かり合えるようになる。
そういうことも、来年度の「社会学」の講義で議論していこうと思います。
学生の皆さん、お楽しみに!