社会学の「観光論的転回」へ。

ヴェーバーデュルケームの時代、
近代に入り、社会は国民国家
らせん状に絡みながら、
あたかもまるで一本の縒り(より)
「のように振舞いながら」形成されてきました。



さらに時代をくだって、
パーソンズマートンの時代にも、
そうした社会像はまだ、ある程度、
リアルなものとして「解釈」できたのかもしれません。



しかし現在、社会は国民国家と、
まるで一本の縒り(より)
「のように振舞いながら」
立ち現われるものではなく、
移動(モビリティーズ)によって、
ローカル、ナショナル、グローバルのねじれのなかで
立ち現われるものとなっているように思います。



とするならば、ヴェーバーデュルケーム
「問いの構造(problematique)」(アルチュセールの用語)を超えて、
社会学は「社会的なるもの」が成立している位相そのもの、
すなわち社会を社会たらしめている契機を再考する、
そんな時代にいたっているのかもしれません。



「社会的なるもの」とは何か。
<社会>の存在、<社会>の意味を
問い直すにあたって、
近代における遊びによる移動である
「ツーリズム」を通して、
そのことを考え直すことは
とても有効ではないでしょうか?