「適切にガリ勉になろう」のすゝめ。

この本を友人のSNSで知って、
おいおいと思いました。




ぼくは学校や大学の中で学んでことは何もない


こうした反知性主義的な言葉が
日本ではもてはやされます。



それは、反知性主義的な言辞が
その人の政治的な、限定された、とても狭い立場にとっては
有効で、かつ利用できるという
ただそれだけのことですが
(つまり、その言葉は、何かを的確に表現している言葉なのではなく、
政治的なやりとりの言葉、
ただ政治的にケンカをふっかけるときに使うような、
個人的には品がないなあと思う言葉に過ぎません)、
そうした言葉をもし
ベタに本気で言っているとすれば、
かなり、かわいそうな気がします。



その言辞をベタで言っているだけならば、
その方に対しては、
「学校や大学ではちゃんと勉強しましょう」と言うだけです。



「ちゃんと勉強する」のは、
ご自分の好きなこと、
言いたいことを
的確に論理的に
ちゃんと自己表現することが
できるようになるからです。
勉強という言葉が嫌なら、
学ぶと言っても良いですが、
そうするのは自分自身のためであり、
自分自身のためになるというまさにそのことを通じて、
社会にも何かをお返しできるからです。




適切にガリ勉になろうぜ
という感じです。
くだらない、反知性主義的で、政治的に狭い立場に、
自分自身が利用されたり
まきこまれたりしないためにも。




「学ぶということ」
「知性的であるということ」
「知性を学校や大学で身につけるということ」、
そういうのは何ら格好悪いことではないと思います。
それを格好悪いと主張することの方が、
結構、格好悪いのではないでしょうか。