誰もがゴフマン的な社会学者の時代。

以前、「身にまとわれるキャラクターこそ
アイデンティティであるかのように
自省的に振舞う」と書きましたが、
「身にまとわれるキャラクターこそ
アイデンティティであるかのように振舞う」だけであれば、
それは以前からそうであったと思うのです。



ここのポイントは、「自省的に振舞う」です。




かつては、「身にまとわれるキャラクターこそ
アイデンティティであるかのように振舞う」と
社会学者が>考察していたわけですが、
近年では、「身にまとわれるキャラクターこそアイデンティティ
であるかのように振舞う」と考えるのは、
社会学者だけではなく、他ならぬ<振る舞っている本人自身>なわけです。




つまり現代は、「自省性=再帰性」に関して言えば、
誰もが社会学的考察を自らに向けている。
ここがポイントなような気がしています。
<誰もがゴフマン的な社会学者の時代>、
でもだからこそ、そのゴフマン的社会学者を
再帰的にゴフマン流に
(それゆえゴフマンを超えるかたちで)
解釈する社会学が一層必要なのではないでしょうか。