“間”性(inter-ness)とは。

adaさんとのやりとりの中で、
ふと口について出てきた
「“間”性(inter-ness)」という言葉ですが、
これは、案外、私自身の思考のかたよりを表現する
キーワードなのかもしれないと思い始めて、
いろいろと考えはじめています。


「“間”性(inter-ness)」とは、
個という「主体」(一なるもの)が
単に集まったものではありません。
もちろん「事業体」などのかたちで、
何らかの統一体(全なるもの)を
形成するものでもありません。


決して「一」と「一」を足し合わせていくものでもなく、
ましてや、個がそこに埋没してしまうような、
何らかの統一体を想定しうるものでもない。
それは、あくまで「間(あいだ)」なのです。


私とは、私とあなたの「間」にある存在、
「間」でこそ多様に生成する個である。

それが「“間”性(inter-ness)」です。
私とあなたの「間」で、
私が思考し、泣き、笑い、怒り、悩み、喜ぶ。
誰がために?
今この瞬間をともに生きる、私とあなたのために。
私のためでもなく。
あなたのためでもなく。


私が一人で部屋にいるときにも、
私の中に多くの「間」が横断している。
あなたとの、彼/彼女たちとの、
今は亡くなったあの人との。
その意味で「私」とはインターチェンジなのである。


「間」は生成そのものであり、
セッションのアドリブ、インプロビゼーションのあり方で、
いくらでもかたちを変える。
ひとつとして同じ「間」はない。
そういうものを考えているような気がしています。



もしかすると、ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』序文で


これはドゥルーズガタリとが書いたものじゃない、
ドゥルーズガタリが書いたのだ。
ドゥルーズガタリとは誰か、
しかしそれは実はどうでもよいことだ
リゾーム』p.7

と述べていることに近いのかもしれません。
うーむ。もう少しきちんと考えてみよう。
できれば論文でいかしていくことにしよう。


リゾーム…序

リゾーム…序


千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)



でも、私自身が確実に一つ意図しているのは、
「主体性」の乗り越えです。
あれ?
これもポストモダンの徹底のことを考えているのでは?
全部、つながっているのか?
もしかして。


今日は2500字書きました。
あと8項目...。
が、が、がんばるぞー
おー



CDも買わなければ。