画用紙とクレヨン。

人は生まれて気づいたときには、
この世界に投げ出されて、
「生(life)」の画用紙をもって、
絶えず「体験」のクレヨンで絵を描いていく。
若いころ、そんなイメージを持っていました。


しかし、それは違うのではないか。
最近、そう思います。


「生(life)」の画用紙は、
人と出会うことで、
ひとつになったり、
重なり合ったり、
まるくなったり、三角になったり、
大きくなったり、
引っ張って破けてささくれ立ったり、
いろいろと、ぐにゃぐにゃと
変化するのではないでしょうか?


「体験」のクレヨンもそうです。
昨日まで、どす黒い色だと思っていたクレヨンが、
ある人と出会い、今は鮮やかな空色に変わることもあるかもしれません。



そういう中で紡いでいく時間が
「自分」を形づくるのだとしたら、
もしかしたら「自分」とは、
そうした人と人の「間」の交通に生成するものかもしれません。


私が生きること、
それは、とりもなおさず、
私の中で、友、信頼する同僚、学生さんたち、
そして愛する家族が私とともに生きることなのではないでしょうか。


思い出としてでは決してありません。
私がこの一瞬、一瞬を生きることで、
彼らも一瞬、一瞬を生き続けるのです。


逆もそうです。
たとえば、学生さんたちが生きること、
それは、私がその学生さんの「生(life)」において
思い出としてではなく、まさにこの一瞬のプロセスにおいて、
生き続けることになるのではないでしょうか?



私は、あなた「と」。
あなたという「私」は、私という「あなた」と。
そして、その「と」は、
いつも、つねに形を変える。


発想を逆転する必要があるのかもしれません。
私は、あなたと出会えたから、
はじめて「私」になったのです。


今日は、この状況の中
いろいろな思いをもって
結婚記念日を迎えます。